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障害って何だろう(4/21)イベントレポート

4月に行いましたイベント「障害って何だろう?」の様子についてレポートいたします。

知的障害施設で働く遠藤さんの障害をとりまく環境の講義後、障害について日頃思っていること、討議したいこと、質問したいことなどをざっくばらんに話し合いました。

談笑される遠藤さん

「障害者へどう接していいか分かんないとか言う人がいるけど、それは発想そのものがまずおかしい、普通に接すりゃいいだけのこと。特別な接し方って言い出したら、人間関係が最初から成立しない。」

という意見がある一方、

「障害があることを自らいきなり話し出して特別扱いを望む当事者もいる。」
という実体験も出てきました。

「そもそも健常者って何なのか?」
という新たな疑問も出てきたり、時間いっぱいいろんな角度で話し合いましたが「障害って何だろう?」についてはっきりとした結論は出ず、参加者一同まだまだ話したりないと言う中、閉幕しました。

しかしみんなで各意見や見たり聞いたりしたことを話すことで、すこし気持ちがすっきりしたり、共感されることで自信をもったりなど一歩前進するよい機会になったと感じています。

以下では、イベントで印象的だった話を紹介させて頂きます。

そもそも障害などいう区切りはなく、人がいるだけ

 

「障害を持ってる方へどう接していいか分かんない」という問いがありましたが、それは発想がまずおかしい、普通に接すりゃいいだけのこと。特別な接し方って言い出したら、人間関係が最初から成立しない。見えない人にはこう接しないといけない、脳性麻痺の人にはこう接しなきゃいけない、それを当てはめてくとマニュアルばっかりのすごい嫌な世界が、ある意味出来上がっちゃってるから困る。障害の規定もそう。元々障害も障害者もいるわけない、人間がいるだけ。ただし、色々な、行政、障害者の規定によって、この人にはまあいくら払うとかが生まれているのではないか、すごいヤな世界が出来てきたなあと。

障害者手帳はパスポートという捉え方もできるかも

 

僕のボランティア活動の中で、メンバーの障害を持った子がいる。僕はその団体に14,5年ぐらいいるんですけど、外出を主なことでやってる。そのとき、その子が、今23,4ぐらいなんだけど、養護学校の方の高等部の方にいる時ぐらいの活動で、手帳見せなきゃいけないんだけど、何でか泣いてたね。何でだろうと親御さんに聞いて、全部は説明してもらえてないだろうし、僕も全部理解できるだけの知識がなかった。聞いた話を僕なりにかみ砕いたからそのまんまとは言えないんですけど、どうやら手帳を見せるのが嫌らしくって。本人がそのぐらいになると傷つくんですよね。自分が、どういう状態で、周りがどういう状態で。やっぱり手帳を使うとか手帳を出すっていうのは嫌だみたいなときがあるらしいです。

でも、僕そのことについて考えたことがあるんです。あれって、本人の生活のためになるっていう、経済的な面で生活のためになるっていうのもそうなんです。でもどっちかっていうと本人の活動の幅をより広げるための仕組みなんじゃないかな。あれで割引って、相当長く割り引かれたりする、普通の人だったらいけないようなことを。作業所やったりっていうのも見てるんで、どうしても、障害を持つとなると収入面で抑えなきゃいけないところが出てくる。けどその抑えをきかせたとしても、手帳があると、一般の人以上に動き回れるんじゃないかな。そういう意味では、本人がより自由になるために、より社会と上手く付き合うためにとか、自分がやりたいことをやるための自己実現に、上手いこと使えるように。そういう教育の仕方でいった方が僕はいいんじゃないかなっていう気がしました。

 

その考え方ってありますよね、そういう所につながるパスポート、ポジティブに捉えて取った方がいいっていう考え方。一方で、それをもらうことで自分が障害者っていうものになっちゃうんだみたいに思うと。


障害が生まれる原因は、個人という考え方?

今社会は人間として生きていけないように作られてしまっている。どうやって生きてるか、みんな個人になっていってしまう。今は障害って概念もそうだし。例えば、アスペルガーだっていうのが個人としての私。人間は個人として成立してないはずですから。関わり合いの中でしか人間て生きられない者のはずなのに、現代社会は自分で考えて決めることの出来る人を設定している。そういう設定をしちゃった中で、病とかその障害のね、私のものにしちゃって。

自分で自分のアイデンティティを作りたがるのはわかるけど、逆にアイデンティティによっても縛られちゃって息苦しくなったりしてる変な社会。人間ていうのはさっきも言ったように、自分の中に留まったら人間じゃない。他者と関わって初めて人間として生きている。 人間はもともとおかしい、おかしいと面白い。きちっと定義づけて正しい生き方をしなきゃいけない、それは疲れてしまう。そういうところで、皆さん行き詰っちゃうんだけど。


障害者のことを怖いと思っている?

障害って、一人ひとりを「こういう障害だから」とカテゴリー分けしてて、目の前の人を見てないような気がするんです。一人ひとり見るというより、ほぼ「こう」って中に仕分けしちゃうって感じがする。それって、障害者ってものを作ってることだと言わないまでも、名前を付けてるのは私たちが関わってきたのかなと思います。その反面、障害者が活動を制限されたり、特に金銭面とか親に頼る部分すごい大きい。環境に影響されやすいということは、近くにいると一番気を付けなければならない。お金だと、親、助っ人、あと政府の助け、それ以外に頼ることがない。逆に頼る人を自分から作ることは、例えば身体が動かない、コミュニケーションができない、ということで難しい。

だからこそ、障害者と関わることがない人には、障害者がよく分からないで怖いものと見るとか、コミュニケーションできないとか、近寄ったら何するか分かんないとか、というイメージがある。自分も持ってたし、周りもやっぱそういうの持ってる。実際に触れると普通なんです。変な話、車椅子で押しててウェーイって投げちゃって、これやっちゃだめなんですけど。それで結構喜んでたりとか、お互いに、ざっくばらんに話したりとか。

健常者の方が珍しい?

 

先ほどの話聞いてると、確かにみんなでユートピアみたいなのを描いて、すごい理想のなんか、理想な人がいて。物理学みたいですね、ある空間にボールを置いたとするみたいな。ほんとにそういう机上の世界に、なんとか当て込んで、生きなきゃいけないっていう状況の象徴的なものかもなあというのは、今改めて感じました。とある標準的理想体形と理想身長と…(笑)障害者の話をしても健常者の定義って出てきませんよね?

障害者支援をしているのはすごいこと?

 

僕、普通の社会人って、変ですけど。何も関わらないを30年ぐらいやってて。それで、55からボランティアで、障害者のヘルパーを始めたんです。その頃に、周りのいわゆる普通のおじさんたち、会社のおじさんたちは、ビックリしたりとか尊敬されたりとか、ちょっと奇異の目で見られたりとか、そういう見られ方をしてたんですね。それで色々聞いてみると、障害者の方を支援する人はすごい、志の高いというような訴え方を、メディアがやってる。だからそういうふうに見ちゃうんですね。僕は別に、しょうもない理由から始めたんです。だから全然志も高くないし、普通のおじさんですって言うんだけど、誰もそれを認めてくれない。特別な技術とか特別な人じゃないと、そういうことは出来ないってことを思ってるのが周りにいっぱいいて、それはメディアのせいじゃないかなあ、って感じますね。

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