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人間は、違う未来を見たかったのではないか? フォトジャーナリスト:佐藤慧(さとうけい)さんインタビュー

フォトジャーナリストとして活躍を続ける佐藤慧(さとうけい)さん。彼が何を考えて、写真を撮り続けているのか?その背景にある哲学について話をお伺いしました。

佐藤慧さんプロフィール

 

1982年岩手県生まれ。studioAFTERMODE所属フォトジャーナリスト、ライター。

 

世界を変えるのはシステムではなく人間の精神的な成長であると信じ、紛争、貧困の問題、人間の思想とその可能性を追う。言葉と写真を駆使し、国家-人種-宗教を超えて、人と人との心の繋がりを探求する。アフリカや中東、東ティモールなどを取材。東日本大震災以降、継続的に被災地の取材も行っている。

 

2011年世界ピースアートコンクール入賞。著書に『Fragments 魂のかけら 東日本大震災の記憶』(かもがわ出版)、他。東京都在住。

 

取材の経験を提供することで、新しい視点を提供することが仕事

 

フォトジャーナリストをやっています。写真を撮って何かを伝えるというのがフォトジャーナリストの定義だと思うのですが、僕の場合は、もう少し広く、写真以外でも文章や話を通じて伝える、その伝えるという目的の中で、写真に一番重きを置いた活動をしているということになります。

 

フォトジャーナリストといっても耳慣れないと思いますが、テレビや新聞などに所属しているカメラマンと違い、こういう仕事をやりなさいと言われる訳ではなく、自分自身に興味があるものに向かっていって、それを伝えることによって一石を投じることができないか、何かしら世の中に良いきっかけを提供できないかということを自分なりに見出していくことを仕事にしています。

 

主にフィールドにしているのは、海外の発展途上国の様子、紛争、貧困、差別、大きな社会問題を扱っています。それらの取材を通じて得たことを日本に持って帰ってくることによって、色々な新たな視点を手に入れて欲しいと考えています。

 

例えば、アフリカの紛争を伝えることでアフリカの紛争をどうにかしようと直接の投げかけをするよりも、何かその状況から学んで、日本の中で、自分たちの生活の中で、何か変えることができるのではないだろうか?といった自分の人生を見直すきっかけにしてほしいと考えています。(勿論、興味を持ってくれた方が増えてくれて、最終的に、現地の問題の解決に貢献することができることを望んでいます。)

 

最初は、アフリカがフィールドだったのが変わりつつあります。そもそもこの仕事に就く前に、アメリカのNGOで活動していて、ザンビア共和国にてHIV予防の仕事をしていました。その背景もありましたので、アフリカのことを伝えるという仕事をしていました。そこからご縁を頂いて、中東、フィリピン、東ティモール、2011年以降は東日本大震災の被害を受けた陸前高田市など、同じテーマを持ちながら、ご縁があるところに関わっています。

 

本当にそうなのだろうか?疑問を感じるきっかけに直面した9.11

 

世界の問題、戦争の問題をビビッドに感じたのは、高校三年生の時の9.11でした。あれを見た時に、すごいことが起こったと高校生ながら思いました。世界ががらりと変わる転換点になったかと思います。テロが起きてすぐ、アフガニスタンのテロリストが自由の国アメリカを攻撃したというニュースが報道されていました。報道の内容は、テロリストという悪魔のような人たちがいて、私たちの平和な社会を壊そうとしているというものでした。中東の野蛮な宗教を信じる野蛮な人たちが僕たちの幸せを壊す。そういった偏った報道だけが世の中を埋めてしまったように感じました。

 

でも、本当にそうなのだろうか?というのが当時の僕の素直な思いでした。自らの命も失ってしまう自爆テロ、自分の命を投げ打ってまで誰かを殺したい、何かに復讐したいとかってどういうことなのだろうか。

 

少し調べてみれば、アフガニスタンという国はそんなことが起こるはるか前から、アメリカやロシアなど、大国のパワーバランスのせいで蹂躙されていた国だとわかります。街が破壊され、人が殺されてきた、攻撃されてきた側の歴史がありました。例えば、もし僕が、ある日、平和な生活をしていた中で、自分の大切にしていた人がどこかから飛んできたミサイルに吹き飛ばされて肉片になってしまう・・・・それも良く分からない大国のパワーバランスという理不尽な理由で・・・・そんなことをされたら、僕だって、憎悪に駆られてしまうと思います。飛行機を奪ってまでと言わないまでも、自分の命を落としてでも、だれかに復讐したい気持ちに駆られるであろうと。それは、人間として当然の感情なのではないだろうか。

 

そう思った際に、テロリストという人たちを単に悪魔と決めつけて、僕ら、西欧列強と日本の価値観を正しいこととして対テロ戦争だと世論が動いていくことに気持ち悪さを感じました。

 

様々な不条理に気づく。同時に、インドの体験がもたらした、
「未知のものをもっともっと見てみたいという思い」

当時、アフガニスタンに興味がありましたが、高校生の時には何もできませんでした。その為、その当時に興味があった、音楽の道に進みもうと思い、大阪芸術大学音楽学科に入学をしました。ただ、大学に入ったものの、もやもやは残っていました。

 

音楽に限らず、色々な表現活動をする全ての方に共通だと思うのですが、自分の中に確固とした言葉が必要だと考えています。それが、平和、愛、人間理想であったり。漠然としたものでもいいと思いますが、世の中の不条理なものに対しての訴え・大きな声を作品に託そうと思っても、僕自身の中にその言葉のきっかけになるものが何もなかったことに気が付きました。

 

例えば、戦争のようなものが始まり、中東で爆弾がたくさん落とされたりする状況や、紛争のニュースを見ても、平和って何なのかわからないし、戦争も同様に分からない、愛、正義など、言葉だけは知っていても、僕の中で体現できる血肉が通ったものではありませんでした。何か上っ面のものだけでは作品が作ることができないなという思いが強くありました。そこで、大学を2年で中退して、世の中を知らなくてはいけない、それも書物で学ぶのではなく、体でぶつかっていかなくては感じられないものがあるのではないかと思い、東京に出ました。

 

東京に出てきて、政治・経済・英語の勉強をしたり、実際に行動してみたりしました。やればやるほど、世の中の不条理に気づいていきます。僕らの国は、平和が保たれて、他の国で人を殺すわけではないと言われていますが、実は、ものすごく大きな視点で見た際に、直接、銃弾や爆弾で人を殺していなくても、経済的な機構の中で圧倒的に人を殺している生活をしている。しかも、罪悪感を感じることなく。

 

僕らが1日生きる為に、先進国の生活を保つ為の必要なものを供給する為に、実は地球の裏側で圧倒的に搾取されている人がいる。自分で目の前の人を殴り殺すのとは違って、普通の生活をしているだけで、誰かがそこに不幸になっていくという現実があります。

 

一個の国の出来事ではなくて、地球規模ででそういうことが起きています。それは、言ってしまえば、鬱屈した関係、いじめ、一方的に強いものが弱者から吸いあげる構造です。グローバルな視点からいうと、格差や貧困の問題になりますし、ミクロの視点で言うと、僕らが差別したり誰かを見捨ててしまったりする、「倫理的になることが出来ずに欠けている何か」と直結していると思いました。

 

そういった思いに至る中で、もっとそういうことを知らなくてはいけない、特にいわゆる発展途上国と呼ばれる方々と自ら接してみないといけないなと感じていました。

 

同時に、その時期に、バックパッカーで世界を回ってみる経験もしました。世界の中で見たかったものは、未知のものと触れてみたかったということが一番大きいですが、それと同じくらい、世界の中にある命の価値観を知りたいという思いがありました。

 

生きる/死ぬとか、日常的に人がリアルに肌感覚で考える機会はないかと思います。死はリアルなものなのに、日本の中にいると、ものすごくオブラートに包まれている。小さいころからそれが気持ち悪かったです。僕は、元々、4人兄弟。弟を病気で亡くして、姉を自殺で亡くしています。身近で人がなくなるということを、兄弟の他にも、経験してきたことがありましたので、生きるとか死ぬとかを考えざるをえないという状況だったのですが、日本の中では、そういう話をする機会がありません。

 

日本では、毎日、何百人も死んでいるのに、生と死と触れる機会がない。でも、それって普通のことなのだろうか?僕が思っている生と死の価値観は、数多ある価値観の中の単なる“価値観A”に過ぎないのではないか。日本の価値観は広い世界の中で本当に一部の価値観なのではないか。それを知りたいという欲求がありました。

 

バックパッカーで巡っている際に、インドに行きました。インドを舞台としている、遠藤周作さんの深い河というのがあるのですが、その舞台になったバラナシを訪れました。バラナシというのは、聖なる街で、聖なる河のガンジス川が流れています。輪廻転生という考え方の中で、罪を洗い落とすため、川で罪を清めることで解脱が出来る・・・・そのような悠久からの価値観を持った方が住んでいるところでした。

 

インドの遠くから、病気を患った方が、バラナシを訪れ、行き倒れて死んでしまいます。それを僧侶がかついでいって、川岸に連れて行って、櫓(やぐら)のような木で組んで、そこに遺体を入れて焼きます。その遺体を焼き切る前に、川に流す。それがぷかぷかと流れる。ガンジス河のどこかで引っかかって野良犬が食べている。その近くで人が生活として暮らしている

 

その光景を見た際に、日本と死生観の距離が全然違うと衝撃を受けました。遺体に対する価値観も生死に対する価値観も全く違う中で、死が忌むべきものではない、人間は自然の中で一部を担っているものではないのではないかと思わせてくれました。

 

人間をものすごく小さく見せてくれるもっと大きな景色が見えた気がしました。もっともっと色々なものがあるかもしれない、もっともっと本にも載っていない、誰も見ていないものを見てみたいという思いを持ったことを覚えています。

アメリカのNGOからザンビアへ
ザンビアにて逆に学ぶ体験。効率化は果たして進歩なのだろうか?

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そうやって世界のあちこちを見ていても、そもそも、行きたいと思っていた発展途上国のベールに包まれているような、例えば、アフリカなどの国になかなか行くことはできませんでした。また、バックパッカーとして旅をしていても、日本に帰ってしまう旅人に過ぎず、過ぎ去っていくだけで、見えていないものがあると思いました。住まなくては見えないものがあるなと感じていて、どうせ住むのであれば、バックパッカーの時にも行ったことがないアフリカに住んでみたいと思っていました。

 

世の中にはNGO職員という仕事があり、発展途上国の奥地に派遣されて、そこで住人と一緒に生活を共に出来る、更に、コミュニティの人と一緒に社会問題に取り組み、給料まで貰える。住むにはいいじゃないかと思い、調べたところ、アフリカで活動しているNGOがアメリカにあることが分かり、そちらに参加することになりました。

 

そのNGOでは、半年間、アメリカで研修があり、研修後にアフリカに派遣されるという流れでした。研修の一環で、6000ドルを自ら募金で稼がないといけないというミッションがありました。なかなかの苦行で、半年の間に丸2~3カ月、シアトルからサンディエゴまでの津々浦々、アフリカにてこんな活動をしたいと説明しながら、1~2ドルを貰うという繰り返しでした。

 

最初は英語が不慣れで向こうが何を言っているのか分からなかったのですが、英語に慣れてくると、差別的な言葉をかけられていることに気が付きます。これがいい経験でした。日本人は、いわゆる先進国の人間として、被差別体験はあまりありませんが、その時、差別されるというのはこういうことなのかと身をもって体験できたのは貴重な体験でした。

 

そういった体験を経て、ぶつかってみるとお互いの知らなかったことが見えてきて、お互い勝手な思い込みで話をしていたなと気づきます。自分の価値観は本当に小さい、価値観Aに過ぎず、かつ、ものすごく大きな偏見に満ちていると。

 

そこからザンビア共和国に派遣されます。アフリカ大陸の真ん中にある貧困国です。(日本では縁もゆかりもないように思いますが、実は関連する身近な産業があります。銅鉱山です。世界最大の銅鉱山を持っていたので、実は、日本の硬貨にも使用されています。)

 

アフリカの国では、珍しく、紛争も地雷もなく、銃がない平和な国。後発発展途上国と言われています。国連の報告書では、1日1ドルという貧困ライン以下の方々が多数いらっしゃるとされています。2007年の頃には、平均寿命が36.7歳。平均寿命が低い理由は、乳幼児死亡率が異様に高いこと(簡単な下痢やマラリアなどが要因です。)と、もう一つの理由はHIVエイズでした。ザンビア共和国は今でも高い方で、地域によっては約20%の方がHIVエイズにかかっている。

そのような情報をもって、何か出来ることはないかと、ザンビアに向かいました。

実際に行ってみると、確かに、先進国の生活と比較をすると、電気もない、ガスもない、マラリアなどで人が亡くなる、大変な生活でした。でも、それがイコール不幸かどうかは直結しなかったんですね。1日1ドル以下の生活と国連の報告にはありましたが、実際に僕自身も1日1ドル以上を使うことが出来ませんでした。物が販売されていないからです。

 

貨幣経済以上に、畑でものを作っているし、人からものを貰うし。お金がかかるのは、学校、病院などの公的機関くらいでした。(今では、携帯やPCが欲しいなどの物欲が出てきましたが、僕が行った際にはまだでした。)1日1ドル以下しか使っていないから貧困だ、可哀想だという価値観は違くて、むしろ豊かに感じました。孤独に暮らす方もいなければ、食べ物がなくて飢え死にする方もいない、仕事のできない人の生活物資も近隣の誰かが持っていくし、障害を持っている方がいれば皆で守って育てる。コミュニティの中で人が密接にかかわって生きている。

 

下の兄弟は上の兄弟に面倒を見てもらうのが当たり前で、死亡率が高いので、8~10人兄弟がいますので、皆、助け合って生きていて、ものすごく純粋な目をしていて、東京の中で、毎日、中央線で経験するようなぎゅうぎゅう社会のフラストレーションと比較すると、なんと人間らしく生き生きとして生物としての幸せを謳歌出来る環境があるのではないだろうかということも感じさせてもらいました。

 

勿論、グローバリゼーションの中で、そういう国のままでいるのは難しいと思います。搾取される側になりますし、子どもたちがより様々な可能性を得る為に、医療や教育を整えていく必要はあるかもしれません。が、それは、僕らの価値観で押し付けるものではなくて、彼らが必要であれば選び取るものでいいと考えています。ないから貧困だ、ないからこの人たちが遅れているという感覚は全く違うなと思いました。

 

むしろ、人に優しくあれて、日々の生活にも感謝することが出来、自然と調和しながら何百年、何万年も生活を営んできた文化から、僕ら先進国と呼ばれる国に生きる人間こそ、学ぶことがあるのではないかと思いました。

 

アメリカから派遣されて、勝手に上から目線で、先進国から来た僕が何か手助けするという青臭い正義感で来たが、むしろ逆に、僕の方がたくさん学ばせて頂きました。生きるとは何か?人間の生活とは何か?みたいなことを、身をもって教わった気がしました。

 

例えば、冷蔵庫がないと、肉が買えないんですね。生きたまんま買ってきて、自分で捌く必要があります。鶏くらいだったら日本でも経験があるかもしれませんが、豚くらいになるとやっぱり心が痛みます。銃とかではなく、包丁1本で裁かないといけない、簡単に殺すのもやっぱり難しい。うまく頸動脈を切れたとしても十数分苦しんでしまう、そこから火で炙って、裁いて、内臓を出して・・・・・そうやって自分で殺した豚の肉は残せないですよね。日本では、どこのコンビニに行ったとしても、肉は買えると思います。パッケージになった時点で想像力が働かなってしまいますが、パッケージになっている肉も、誰かが殺した肉で生きていたものです。

 

そうやって自分で捌いた豚は、血肉の一片たりとも無駄にしたくない残したくないという思いになります。自然と湧き上がる感謝の気持ちが、「頂きます」でした。日本では、調理をしてくれた方、用意をしれくれた方への感謝の言葉として教わってきましたが、実は、それはリアルに目の前の命を自分に頂きますということなのではないかと思いました。自分で殺して奪ったその命、僕が生きなければその命が生きたかもしれない、命の取捨選択をする中で、僕はその命を奪っている。奪っているという行為の中で、少しでも謙遜の気持ちが感謝の気持ちに変わっていったのではないかと思いました。

 

そういう気持ちを持つことは、日々の生活を豊かにするものだと思います。それらの行為はいちいち大変で、ものすごい手間で、かつ、先進国の生活は、それらの手間をなくすことを進歩と呼んできました。でも、実はそれが進歩だったのかは、僕は分からないと思います。その過程にあったものが本当にただの無駄だったのか?その苦労が人生に潤いを与えてくれる大切なもので、その大変さが感謝を呼び起こさせてくれていたのではないか。その感謝の気持ちが「足るを知る」という自分の生活に幸せを見出すために必要な能力だったのではないか。

 

いくところまで来たこの都会の生活は、人に感謝が出来なくなっている生活なのではないかと。お金を出すことを感謝の代わりにしてしまう。製品を買うにしても、ものすごくたくさんの人たちがかかわっているのに、僕らはそこに対する「ありがとう」という感謝の気持ちを効率化ですり潰してペラペラのお金にしているように感じます。

 

生活が便利になると思って効率化を進めてきたけれど、僕らは、もしかしたら不幸になる方向に進んでいるのではないか。そういう警鐘を鳴らしてくれたのがその時の経験でした。

 

日本人やアフリカ人や国境を越えて、
人と繋がるのは、こんなに楽しいんだ。

 

アメリカのNGOでの活動で様々な活動をした後、お世話になったアフリカのその地域の人たちに恩返しをしたいなと思いました。校長先生に、何か出来ることはないか?と聞いてみたところ、学校の校舎を新設して欲しいと言われました。

 

政府にも頼んでいるけど、5~10年経過しているけど一向に出来ない。8個くらい教室があって、生徒が2000人もいます。学校は、3~4部制になっていおり、全然勉強が出来る環境ではないです。そのような背景もあり、教室の棟をひとつ、できたら作ってくれないかということでした。

(詳細は「ザンビアに学校を建ててみた」 http://ameblo.jp/zambiaschool/

 

1日1ドルしか稼ぐことが出来ない環境とは違う環境にいる自分が、それであれば役立てるかもしれないなと思いました。自分ひとりでお金を貯めてやるのもつまらないから、「ザンビアに学校を建ててみる」というプロジェクトにしました。興味がある方は、そこに募金をしてくれないか、そして、募金してくれた方に逐一報告をするという形です。

 

当時幸いなことに田舎のサンフィアというところにパラボラアンテナを通じてインターネットを繋げられる環境がありましたので、現地に飛んで、大工さんを雇って、設計図を書いての段階から、現地で発信をしながら、募金を募っていきました。今でいうクラウドファウンディングですね。例えば、「今日は1万円貰った募金でレンガを買いに来ました。それを大工さんのところにもっていって・・・・」など、顔と名前が見える状態で繋がってもらうことを意識しました。

 

大きなプロジェクトで人も雇う形になるので、従業員もいて、彼らの生活もあることになります。中途半端なことをする訳にはいかない。半年間かかったプロジェクトだったのですが、それを赤裸々に描きました。

 

その経験を通じて、前回、NGO職員では超えることが出来なかった壁を越えられた気がしました。前回、こちらに来た時は、佐藤慧という個人というよりは、先進国から来た人間、日本という経済大国から人間というバックグラウンドの方が見えてしまっていたと思います。どうしても、外国とのパイプのように見えてしまいます。このプロジェクトで戻った際には従業員の家族と深い付き合いをしてもらいました。また、お互い、ケンカしたり笑ったり泣いたりするような関係になった際に、初めて、日本人、ザンビア人、アメリカ人とか国境や人種や文化を超えて、人って一緒に繋がってこんなに楽しいんだという経験をすることができました。

全てがあるが、平和だけがない国、コンゴ民主共和国
この世界で本当に幸せになることができるのだろうか?

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ザンビアのすぐ北にコンゴ民主共和国があります。そちらはとてつもない大変な国。この25年間くらいで600万人くらい殺されていて、資源紛争なのですが、日本、及び、西洋では全く報道されない状況にあります。

(2016年8月24日朝日新聞の朝刊にて貴重な記事が掲載されていました)

 

なぜかというと、先進国の生活を支える為に必要な物資はコンゴ共和国のような国から搾取して持ってくる必要があるからです。コンゴ民主共和国は、なんでもある国と言われています。鉱物からオイルまで天然資源が豊富な国で、「全てがある国、ただし平和以外は」と言われています。

 

鉱物利権を狙って、大国が武器を渡して武力勢力を蜂起させて、そいつらが鉱山に人が近寄れないようにして、そこに外国資本が入って・・・・という構造です。ザンビアにいると、そういう現実が身近に耳に入ってくるようになります。誰々さんの親戚がこんな目にあったらしいよ・・・とか。戦争というのは、ものすごい地球の裏側の遠い出来事ではなくて、どこか隣近所で繋がって起きているという感覚がそのころ醸成されたのだと思います。

 

ものすごく気になったのは少年兵。彼らは本当に、10歳に満たないケースが多く、武装勢力に人々が殺されて子供だけ連れ去られて、兵士として育てられます。その彼らが一番最初にやらされる仕事は、彼らの両親や友人を殺させることです。そうなると、子どもは倫理観が壊れてしまいます。日々、武装勢力に養われて、人を殺す為の殺人マシーンのようになってしまう。

 

それって局所的に見ると、武装勢力という悪魔のような存在がやっているように見えるのですが、それを焚き付けているのは、僕らのものすごい遠くの安穏とした生活。側まで行けば、絶対に感じるような痛みを、距離や効率化というシステムを挟むことによって感じなくさせている。ものすごい皮膚を厚くしている。

 

これを帰って伝えることが出来ないかなというのが、伝える側に移った一つのきっかけです。それは、単純に「こんなにひどいことがある」と伝えたい訳ではなくて、「あなたはこの世界で本当に幸せに生きられるんですか?」という問いかけをしたいと考えています。少なくとも僕は楽天的な人間なので、大概は幸せに生きています。でも、例え99%幸せだと思っても、1%は引っかかってしまう。知っている以上、ぬぐえない記憶というものがあるので。自分が気持ちよく生きる為には、その問題に対して、自分が何かしらアプローチを続けるしかない。

 

かつ、もう一つ投げかけたいのは、今、あなたが幸せだと思っている生活、便利だと思っている生活は、本当に僕らが求めてここに来たもので、これから先も、進んでいきたいものなのか?人間というのは、ここに辿り着きたかったのか?人間というのは、これから先もこの道を進んでいくのでいいものなのだろうか?というアフリカの田舎の素朴な幸せな生活と対比して考えて欲しいと思いました。

 

人間は、違う未来を見たかったのではないか?

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いわゆるメディアの役割として、問題を知ってもらって、問題にアプローチしてもらうというものがありますが、僕の場合は、「あなたはどう思いますか?」と疑問を投げかけることで自分自身の生活に何かしらフィードバックをして欲しい。

 

それは僕がおこがましく、そういった問いを突きつけたい訳ではなくて、僕自身がそのようなフィードバックを繰り返さないと生活が出来ないことが背景にあります。

 

圧倒的に僕らは麻痺しています。横で人が死んでいたら、美味しくご飯を食べられないはずですが、地球の裏側で人が死んでいても美味しくご飯を食べることが出来てしまう。これは、極論かもしれないですが、突き詰めるとそれに近いことが起きている。その歪は社会構造の中で、アフリカなどに限らず、色々なところにあって、例えば、日本というのは、ぱっと見ると安全で平和に見えますが、僕は、色々な国を見てきて、こんなにフラジャイル、壊れそうな危ない国はないと感じています。

 

精神的には、一人ひとりの人間が真綿で締め付けられるように殺されていくような、ものすごい重圧とプレッシャーと孤独感がある国のような気がしています。僕が非常に興味を持っている問題の中で、自死というテーマがあります。

日本の自死数はとてつもなく多く、年間で約2~3万人の方が亡くなっている。それが10年間以上続いていて、つまりは2~30万人の方がこの10年程で亡くなっていることになります。そんなに人が亡くなる紛争なんて、世の中なかなかありません。毎年、コンスタントに同じ数の方が亡くなっているということは、社会構造的に毎年3万人分、誰かが生きていくことが出来ない何か穴のようなものがあって、毎年毎年、その穴に誰かが落ちてしまう。たまたま僕らは落ちないで済む場所を歩いてきたかもしれないけど、その穴は常に存在するから毎年毎年一定数の方が亡くなってしまう。自死が社会構造的に発生しているのであれば、どこかに原因がある訳です。

 

では、根本にある問題は何なのだろう?それって「あなたが弱かったから自殺してしまったのでしょう」という個人の問題ではない気がします。世界が欠陥を持っている、どこかで「誰かが3万人くらい亡くなるのは仕方がない」と思っている。さっきの問題で言うと、地球の裏側で人が死んでいくのは仕方がない、この生活を維持する為には避けられない犠牲だという考えと一緒だと思います。

 

どこかで犠牲を常に必要としている社会構造のままでここまで来てしまった。しかし「果たしてこれは人類が本当に望んだものなのだろうか?」という問いかけが重要だと思います。望んでいるのであればまだわかります。人間はこういう生き物で、あらかじめ犠牲を必要としている生き物なのではないのであれば、それに納得して生きるという考え方もできます。

 

でも、本当にそうなのだろうか?ただ単に、直視するのが怖くて、自分を戒めるのが怖くて、問題を遠くに置いてしまっているだけではないだろうか。実は、人間はもっと違う未来を見たかったのではないか。物事を変革していく創造力、他を思いやることの出来る共感力など、人間独特の力を使えばもっといい社会を作れたかもしれないし、殺し合わずに生きれるかもしれない。様々な知恵や可能性があるはずなのに、何かどこかで諦めているのではないだろうか。「本当にそれでいいんですか?」ということを投げかけたい、ノックしたい。

 

少なくとも、僕は諦めていません。可能性をすごく感じています。世界にはこれだけ多様な価値観がある。違う価値観に触れるということは時に怖いことでもあります。未知が不安を掻き立てるからです。でも未知は、新たな希望の可能性でもある。それは本来同じものです。自分が認識している世界の外に違う世界があるということ、それは、自分の世界に干渉してきて破壊や歪をもたらすかもしれないけれど、自分の世界をより広げてくれる希望になるかもしれない。

 

Attidude次第だと思います。今、世界的に見ると、自分の外にある価値観は自分の安定を壊してしまう不確定要素だ、だから排除してしまおうという動きが強い気がしています。中東の方でもそうですし、日本の中でもそうです。違うものを排除する、それによって内側を守る。それってどこまで行っても終わらない戦いです。外にあるものを全て壊すまで終わらないし、仮に「外側の全て」を壊せたとしても、よりその中で細分化が始まり、差異を見つけて、また「敵」を生み出してしまう。どこまでも排除のスパイラルから抜け出すことが出来ないと感じています。

 

武器を捨ててwelcomeするということは、難しいことかもしれませんが、僕自身は今までの経験上、違う価値観に触れるということはなんて面白いんだろう!という気持ちの方が上回っています。

 

どうして人間はこうも愚かなのだろうという現場もたくさん見ましたが、なんて素晴らしいんだろうという方がちょっぴりだけ、多いです。人間は頑張っても100年程度しか生きることが出来ず、全てを経験することは出来ません。でも、自分が経験していないことは、他の人が持っている可能性があります。そして、分かち合うことが出来ます。

 

僕らは70億の人間がいて、歴史的に見たら、何百億という人間の集積の結果、ここにいます。分からないから排除するのではなくて、可能性を見出してお互いに認め合って共存してもいいのではないのだろうか、僕はその方が楽しい。全てが同じ規格の価値観よりも、違うものと出会うことがとても楽しくて。怖い時もあるけど、こんなに楽しいこともあるんだよと伝えたいと思っています。

 

目をそのまま伝えられるものは、写真だけ。

 

人と出会う喜びを伝える時に、いまのところ、ツールとして素晴らしいと思っているのは写真です。人と出会った時、僕らは、何かしらの「印象」を交感します。大抵の場合、それは目と目の間で生じるように思います。人に限らず、なぜか生物同士は目を見ることで、その対象の内部を覗き込もうとします。きっと目に見えない何か、奥底にあるものを感じあっているのでしょう。

 

目を見るとその人の何かが分かります。研ぎ澄まされている時は内面まで見えてしまう時もあるし、それが故に、文化によっては、目をじっと見ることが失礼になったりするのかもしれません。逆に、目をそらす人を信頼できないという文化もありますし、心と非常に関係していると思います。

 

目をそのまま伝えることが出来るのは、写真の素晴らしい点だと思います。ただそこに1枚の写真があるだけで、その人自身が体験できる、その瞳と向かい合える。世の中にはこんな目をする人がいるのだと感じることが出来る。そこに僕が何かを付け加える必要性はありません。その人自身に出会って頂く。実際に物理的に会うことは大切ですし、それに勝ることはないと思います。でも、全ての人がそれを出来る環境にいる訳ではありません。

 

フォトジャーナリストという職業は、他の人の代わりに代視をすることが出来て、代わりに見てくる、感じてくることが出来ます。世の中には、「こんな目をする人がいるんだ」、「こんな価値観があるんだ」、「こんな人間的魅力を持つ人ががいるんだ」ということを知ることで、今まで自分の内側にはなかった違うものに対する好奇心が芽生えてくれるようであれば、僕としては上出来なのではないかと思います。

 

写真を撮るには、絶対に現場に行く必要があります。シャッターを切る瞬間は、自分の意志で決めます。自分が伝えたい瞬間、それは、自分が自覚した細かい時間であり、意思が凝縮されている気がします。そのような特性があるが故に、カメラというものは世界と対峙する為に必要な杖になってくれていると思います。

 

現場に行くのは面倒なことです。でも、行かないと写真は撮れないし、その現場でしか感じられない「何か」は得られない。写真はその距離を超えさせてくれるツールであります。また、どんな現場でも毎回、毎回、素晴らしい出会いがあり、それが自分の命を充電してくれる気がしています。これからも、そんな僕の感じた世界の一片を持ち帰ることで、何かが広がっていったら楽しいなと思います。

(最後に佐藤慧さんが撮影した写真の一部をご紹介いたします。)

C01 旅先での出逢いは常に心に何かを残す
旅先での出逢いは常に心に何かを残す。(東ティモール)

C02 過酷な災害の現場で取材を手伝ってくれた女の子
過酷な災害の現場で、取材を手伝ってくれた女の子。(フィリピン)

C03 子どもたちは世界の美しさを知っている
子どもたちは世界の美しさを知っている。(ザンビア共和国)

C04 東日本大震災直後の現地入りカメラを杖として
東日本大震災直後の現地入り。カメラを杖として。(陸前高田市:渋谷敦志撮影)

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