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2017.08.06.Sun

「対等って何だろう?」聴者と聴覚障害者が対等な社会を創造する、シュアール大木洵人さんインタビュー

聴覚障害の方は日本では、約36万人います。しかし、皆さんは、聴覚障害を持った方に気づけていないのかもしれません。
 
本日のテーマは「聴覚障害を持った方が置かれている現状」です。話を伺うのは遠隔手話通訳サービスなどを展開するシュアール代表の大木洵人さん。
 
同シュアールグループは、「聴者と聴覚障害者が対等な社会を創造する」というミッションのもと、「Tech for the Deaf」というスローガンを掲げ、手話とITを組み合わせたサービスを先駆けて提供されています。
 
では早速、伺っていきましょう。

インタビュアー
Shuhizzle

サラリーマンと自営業、アメリカと日本、難聴と健聴といった境目をまたぐことについて感じたことを情報発信している。難聴の子どもを持ち、同様の悩みを持つであろう難聴者家族のために、取材・情報発信を進めています。
インタビュイー
大木 洵人

 
株式会社シュアール 代表取締役 / NPO法人シュアール 理事長 / 手話通訳士
 
1987年群馬県生まれ。
慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院情報学環教育部修了。大学在学中に手話の言語としての美しさに魅かれ、独学で手話を始める。同年、NHK紅白歌合戦の一青窈さんの手話バックコーラスの制作、指導、出演をする。紅白出演をきっかけに、聴覚障害者向けの娯楽が少ない事を知り、手話映像制作のボランティアを始める。その後、彼らの社会インフラが整備されていない現状(手話で緊急電話が出来ないなど)を目の当たりにし、2008年にシュアールを創業。「聴覚障害者と聴者の本当の意味での対等な社会を創造する」という理念のもと、テレビ電話を利用した遠隔手話通訳や、手話キーボードを搭載した手話辞典など、ITを駆使した手話サービスを開始する。2013年、手話通訳士取得。趣味はスポーツ(トライアスロンとスポールブール)と囲碁。

 

手話との出会い

僕自身は難聴の子供を持つまで、まったく手話との接点がなかったのですが、大木さんの手話との出会いはどんなものだったのでしょうか?

中二のときにNHK手話講座をみたのがきっかけでした。
たまたま学校が休みだったのですが、世の中は休みではないので、両親は仕事に行っちゃってるし、アニメなど子供向けのテレビ番組なんてやってなかったんですよね。昼ドラとかみても楽しい歳じゃないので、選択肢は大相撲と手話講座。どっち見るかな、大相撲よりは手話講座のほうが面白いかなくらいの感覚でその番組をみました。

そんな消極的な出会いだったのですが、見てみたらこんなすごいものがあるんだという衝撃を受けました。当時は、加藤夏希さんが出ていて、日本ろう者劇団井崎哲也さんが先生をしていました。今でもその番組の流れや映像が浮かぶくらい覚えています。

その後しばらくブランクがあって、20歳で手話を再開していらっしゃいますね。

ちょうど手話と出会ったのと同じ14歳のころ、ジャーナリストを志していました。大学も専門のところに行くつもりで、日本大学芸術学部写真学科を目指していました。戦場カメラマンの宮嶋茂樹さんの生き方にあこがれていて、戦場カメラマンになりたいと。

戦争も手話もそうですが、興味ない人は知らない訳ですよね。僕も戦場って正直興味も実感もなかったんですが、戦争写真を見た際に、こんな世の中あるんだと。写真一枚で世の中に知られていない事実を自分事にさせてしまう。写真を通して伝えるってすごいなと思いました。今をリアルに伝える、そのようなカメラマンになりたいなと思っていました。

その後、アメリカのジャーナリズムを勉強するコースがある高校に1年留学するくらい熱中して、日本では写真部を立ち上げて、写真甲子園を志していました。が、2年連続関東決勝ということで敗退していて、結局一度も全国大会に行けませんでした。全国に出られるのと出られないのとは大きな差で、県2位では意味がない。最下位と変わらないんですよね。アメリカに留学までしてやってきたという3年越しの想いがあったのもあって、写真は挫折しました。

僕は熱中したら、99.9%それに没頭しちゃうタイプなんですが、そのあとなにしようかなと思ったときに関心の順位の高いところに手話があったんですよね。それで独学で手話を勉強しつつ、しばらく、他のサークルとか入ってみたのですが、これは違うなということですぐやめました。そして、当時手話サークルがなかったので自分ではじめました。これが大学1年秋のことです。

その後、一青窈さんが大学の先輩だったのですが、紅白に出るというので誘われまして。ノリで「でますよ」と言って、サークル立ち上げ3カ月、手話歴5カ月という訳分からないようなスピードで紅白に出ました。今思うとやんちゃだなと思うし、今言われても断りそうなのですが、当時は何も怖いものしらずで(笑)

それがきっかけで手話系の雑誌や関連団体から講演など取材が来て、季刊みみ(MIMI)という雑誌に掲載されたり、イベントに呼んでいただいたり、いろいろなところに出して頂いたんです。大学生なのでそういったのがうれしくてお受けしていたのですが、5月くらいになっても紅白出場に関連した連絡が来るんです。今は2月(インタビュー当時)ですが、もう誰も紅白歌合戦の話なんてしないではないですか?(笑)それが聴こえないひとの世界ではいまだに話題になっている。

なぜだろうと思った際に、娯楽が無いからなんだということを知りました。

手話の映画も、数年に一回出るんですが、7~8年前の映画、「ゆずり葉」っていうんですけど、がいまだに話題になったりするんです。それが普通、聴こえない人の世界では当たり前。

日本語とか音声言語では文字があるので普通に時間と空間を超えるんですよね。
文字があれば例えば壁画の時代のものでも、書いている内容が今でも見えるので時間軸超えますよね。そして瓦版ができ、容易に場所も移動できるようになって、空間を超えることもできるようになりました。その後、新聞ができ、ラジオができ、テレビができてと時空間を超えるメディアが発展してきたんです。

でも聴こえない人にとっては、ラジオ以前は無意味なんですよ。やっとテレビができて手話ニュースができましたが、電波の占有率は0.1%とか。あれだけ民放とかあるのにNHKで30分くらい。で、やっと今Youtubeとかができて、そういった制約なく手話のメディアが作れるようになってきたんですよ。

学生当時、まさにインターネットが普及してきていて。まだ、自宅、学校や会社のパソコンでやるものだったけれども、やっと手話の動画配信ができるようになった。手話のメディアが作れる時代にちょうどなった瞬間だったんですよね。

娯楽がない、聴こえない人の世界のために、学生ボランティアとして出来ることがあるんではないかと思いました。今でこそYouTuber(ユーチューバー)や、ブロガーがインターネットで稼げるようになっていると思いますが、当時は動画配信やブログなんてマニアがやるものだったので、まさか手話のメディアで稼げるとは思わず、それが生業になるとは当時思っていませんでしたが、まずは学生ボランティアとしてなにかやってみようということがスタートです。そのために団体を立ち上げたのが、大学2年生の5月でした。

シュアール設立のきっかけ

活動している中で、芸能事務所さんと仕事をしたりして実績を積み重ねていったのですが、ただその時は健聴者である人たちが一方的に作っているだけだったんですよ。

ある意味聴こえない人にとっては外人である私たちがつくっている状態です。お笑いの世界でもWhy Japanese People!みたいな切り口の笑いってあるのでそれはそれでいいんですが、王道ではない。手話のエンターテイメントをやるのに、当事者の感覚がないとだめだろうと思って、仲良くなった聴こえない方に仲間になってもらいました。

そこからいろいろな問題が見え始めたんですよね。

例えば、110番、119番が出来ない、電話が出来ない、病院に行きたいけれど、通訳を探すことが大変で行けない。行政に依頼しても、「通訳を派遣するのに1日かかります」と言われ、病院に行くにも、よほど悪くならない限り、我慢してしまう。

「なんで体調悪いのに病院いかないの」って聞くと「通訳探すの大変だから」というんです。

あ、これは娯楽も大事だけどそれ以上にやばい問題があるんじゃないかと思ったんですね。
僕の仲間が、聴覚障害者36万人が、110番が出来ない状態は由々しき問題、先進国のはずの日本としてありえない。これはボランティアじゃ解決できないと思い、これを解決する方法を模索しました。

そう思った当時、5個選択肢がありました。

1. 大学で手話の研究者になる
2. 政治家になる。行政に影響を与えていく。
3. 金持ちになる。
※ちょうどビル・ゲイツさんとかが財団つくって、いろいろ事業を始めた時期だったんですよね。
4. 既存の手話対応していないメーカーか手話に関わる団体に入って、双方の交流を促す。
※今の企業が手話を考えていないという課題と、今の手話に関わっている方がIT化に取り組んでいない)
5. そして、周りにもいっぱいそういう先輩いたのですが、起業する

ただ、上から4つまでっていずれも時間がかかるんですよね。研究者になるには、あと6年在学しなきゃいけないし、政治家は25歳にならないと立候補できないし、企業にはいってっていってもまず入るのに3年かかって影響力あるポジションにいくのはいつになるのか分からないし。

全て20才ちょっとの若者には難しい。

では、大学2年生としていまできること、最初の影響力は小さいかもしれないけど、すぐ始められて一歩一歩前に進めること、ということで起業を決めたんですね。もともと起業家になりたい、起業しようと思った訳ではなかったのですが、選択肢がそれしかなかったんです。

110番、119番ってインフラじゃないですか。手話通訳がいないから繋がらないとかあっちゃいけないし、出てきた人が慣れていなくて伝わらないと意味がない。安定性を持ってちゃんと高品質なサービスを提供する為にはビジネスにするしかないわけですよ。
当時は貧乏だったので100円コーヒー一杯で何時間でもマックでミーティングしていたんですが(笑)、マックに聴こえないメンバーを呼んで「おれ起業しようと思う」といって起業を決めました。それが大学2年生の11月です。

そのとき決めたのが、「手話」を「レギュラー」にするという想いをこめて、シュアール。今の会社名です。

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