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2017.10.05.Thu

海を渡った「ど根性ひまわり」―国境を越えてつながる励ましの輪―

2017年3月11日。カリフォルニアで有名な地方紙であるTHE ORANGE COUNTRY REGISTER紙の一面は鮮やかなオレンジ色に彩られた。見出しには大きく“Gusty Sunflowers”の文字。日本語で『ど根性ひまわり』を意味する。
 
その取材を受けたのは、カリフォルニアの大学に通う、岩手県陸前高田市出身の川崎遥さん(20歳)。2011年の震災後、宮城県石巻市から始まった、復興のシンボル『ど根性ひまわり』のストーリーをアメリカに伝える、という願いがかなった瞬間だった。
 

2011年3月11日、震災の記憶

 
「震災当日は大阪にいたので、揺れも全く感じませんでした」
小学生の頃からアメリカの大学に行くことを志し、そのために大阪の中高一貫校に入学し、寮生活をしていた川崎さん。2011年の3月11日。当時中学1年生だった川崎さんは、寮長から聞いて震災のことを知った。
 
「最初はよくある地震かと思いました。」
 
しかし、テレビで放送された気仙沼での津波の様子を見て、ことの重大さを知ったという。
 
「寮でテレビを見て、信じられない光景にただ不安を覚えました。気仙沼がこれでは、じいさん、ばあさんの住む陸前高田も、絶対被害に遭っていると確信しました。すぐに電話をしましたが、繋がりませんでした。地震と津波の影響で電波がなかったため、2,3日は全く安否が確認できず、3日後に電波が復活して、祖父母の命が助かったことを知りました。その時点では、生存可否以外の情報を得ることはできなかったので、不安な想いが続いたことを覚えています。陸前高田で病院を経営していた叔父もいたのですが、看護師たちを家に帰した後一人病院を守ると残ったため、津波に流され亡くなりました。」
 
その年の7月、川崎さん一家は陸前高田に向かった。
 
「知っている街がなくなっていました。正直にいうと実感が湧きませんでした。実家も土台以外、すべて津波で流されてしまって、おじさんの病院も1階部分はかろうじて残った程度でした。小さい頃、祖父母と過ごした、思い出の場所もなくなり、通っていたマーケットも、鉄骨だけ。あるはずと思っていたものがないんです。はじめて故郷を失った経験でした。難民の話とか聞いたことはあって、頭では理解しているつもりでしたが、実際に自分の家を失うという経験は思っていた以上のものでした。自分の身に降りかかってようやくわかったんです。」
 
震災当日、大切な人や思い出の街がどうなったかわからず、何もできないもどかしさや苦しみ。そして、その後津波の被害を目の当たりにした衝撃から、何か「人のためになる」ことができる人になりたい、と川崎さんは強く思ったという。
 

『ど根性ひまわり』との出会い

 
大阪に戻り、学生生活を続けていた川崎さん。ある日宮城出身の学生から渡されたのが『ど根性ひまわり』の種だった。被災者でもあるその学生は、「学校に行くのがつらい」と周囲に打ち明けたところ、近所の人が彼を励ますためにこの種を渡したそうだ。
 
「『ど根性ひまわり』とは、3.11の津波の被災地の一つ、宮城県石巻市で育った“奇跡のひまわり”です。震災によって多くの人が亡くなり、石巻市でも、街は瓦礫の山となってしまいました。そんな状況の中、「負けない」「再建してみせる」という強い思いから、地元の人が『がんばろう!石巻』という立て看板立てたのです。すると、どこからか流れ着いたひまわりの種が、その看板の基礎部分にたどり着き、花を咲かせました。塩害もあったので、この地では植物が育たないじゃないか、と言われていた中での出来事だったので、『このひまわりのように頑張ろう』と、人々を励ます象徴になりました。このひまわりは、そのたくましい姿から『ど根性ひまわり』と名付けられます。ひまわりへの感謝の気持ちと、未来の子どもたちが震災について話すきっかけになってほしいという想いから、このひまわりの種を配布する活動が始まったそうです。」
 
そのうちの一つが、宮城出身の友達の元に届いて、「大阪でもひまわりを咲かせてほしい」と川崎さんの手に渡ったのだ。
 
「ど根性ひまわりを、防災意識の向上と希望のシンボルとして育て、広めていく活動を、大阪の学校で行いました。生徒会長をしていたので、自分が卒業した後も続くように生徒会の活動として残してきたのですが、この活動は、人々に希望を届けることができると確信しました。そして、カリフォルニアへの進学が決まったとき、アメリカにもこの活動を広げようと思ったのです。」
 

2017年3月11日、カリフォルニアの地元紙一面。さらに広がる、『励ましの輪』。

 
強い思いをもって渡米した川崎さん。しかし、活動をはじめるまでには苦労もあったそうだ。
 
「はじめはひまわりを育てる許可が降りませんでした。一人で大学に交渉していたのですが、ある教授と掛け合ったところ、畑の一部を貸してくれることになりました。活動を続けていくと、7人くらいの学生が協力してくれるようになりました。」
 
川崎さんたちは、日本語と英語で、石巻のストーリーやひまわりの育っていく様子を、Facebookページを通じて発信することにした。すると、それが偶然地元紙の記者の目にとまり、取材を受けることになった。大切な街が震災に遭い、苦しい想いをしたこと。石巻から始まった『ど根性ひまわり』のストーリー。そして、少しでも人のためになればという想いで、活動を続けていることを伝えた。
 
「新聞のトップ一面に載せてもらったこともすごく嬉しかったのですが、それ以上に嬉しかったのは、記事を読んだ読者の方からのメッセージでした。」
 
『ど根性ひまわり』の記事の反響は大きく、新聞社を通じたり、Facebookページを通じたりして多くのメッセージをもらったという。「記事を読んだあるご婦人からのメッセージが印象に残っています。」
 
―――そのご婦人は、息子さんを若くして亡くされた。20代という若さだった。苦しみと悲しみに抱えられていたが、ひまわりの記事を読んで、生前の息子さんとの思い出が蘇ったという。それは、息子さんがよく言っていた、『ひまわりって美しくて幸せな顔をしているよね。だからひまわりが一番好きな花なんです』という言葉。そして、そのメッセージには、是非ひまわりの種をわけてほしい、とありました。ひまわりを育てることで、息子との思い出は生き続けるし、自分のこのひまわりのように『ど根性』で、一生懸命生きていきたい、と―――
 
「正直、アメリカでこの活動をやることに対して、葛藤がありました。アメリカからすると、日本の東北という遠いところの話だし、「ふうん」としか思われないんじゃないかなって。漠然と、この活動って意味があるのかなって思うこともあったんです。それでも、震災の後、陸前高田を訪れたときのことを思い出して、やっぱりやりたい、と思って続けてきました。それが、このご婦人のような方と繋がれたという奇跡になって、とても嬉しく思います。」
 
他にも、ひまわりに関する思い出を共有してくれる人や、亡くなった母を偲ぶ想いで種を育てたいという人など、多くの人からメッセージが届いたという。
 
「今ではFacebookページから、種をわけてほしい、というメッセージが届くようになりました。サポーターと一緒に、希望者には種を郵送しています。中には、種を買いたいと申し出る人もいます。共感するプロジェクトなので、是非投資をさせてほしい、というのです。これについては、あくまでもプレゼント、ということで種を贈らせてもらっています。」
 
現在、カリフォルニアでの活動には11人のサポーターがいる。中にはアメリカ国籍の学生もいるそうだ。はじめは、日本人学生が中心の活動だったのだが、国を超えたつながりも生んでいる。2015年に、ネパールでも大地震があり、大きな被害があった。その追悼イベントを共同で開催し、多くの学生を集め、『ど根性ひまわり』活動のメンバーも一緒に地震について話し合った。
 

 

これからのど根性ひまわり、そして被災地の心の復興

 
『ど根性ひまわり』の活動は、まだまだ終わらない。3.11の「心の復興」はまだこれからだ、という川崎さん。『ど根性ひまわり』を通じた『励ましの輪』を、さらに広げていこうとしている。
 
「『ど根性ひまわり』のストーリーはすごい力を持っています。『励ましの輪』を広げる、というコンセプトで、『ど根性ひまわり』に励まされた人のストーリーを、さらに発信していくマンスリーマガジンをFacebook上で公開しています。東北の話によって励まされたあのご婦人のストーリーもまた、東北の人を励ます力を持っていると思うのです。そういったストーリーが世界に広がってほしいと願っています。」
 
また、活動を通して、防災意識の向上にも繋げていきたいという。
 
「これに関しては、自分自身が震災を経験した訳ではないので、自分が発信していいのか、葛藤があるのですが、東北地方の被災者の方のお話を聞いていて感じたのです。ある漁師さんがおっしゃっていたのですが、漁師さんの人の中には、津波に遭って海が怖く、漁に出ることができない人がいるという。でも、怖いのは津波であって、海ではないのです。しっかり備えれば、海と共生することもできる、という言葉を聞いて、防災の大切さについても発信していきたいと思いました。」
 
川崎さんは、今年も陸前高田の親戚を訪れた。祖母は亡くなり、祖父が一人で、公営マンションで暮らしているという。
 
「今年東北地方に行って、復興について考えました。世間では復興が進んできた、とも言われているのですが、復興には2種類あると感じています。物質的な復興と、心の復興です。たしかに、建物ができ、モノも手に入り、物質的復興は進んでいるように感じます。しかし、心、コミュニティはまだ復興できていないのです。祖父はマンションに引っ越して、とてもさみしいと言います。海が好きだったのに、高台に住んでいることや、マンションなので、となりの人の顔を見ずに暮らしていることがあるようです。マンションでの暮らしは、鉄の扉で囲われ、近所の人との会話もありません。震災直後は仮設住宅に住んでいたのですが、昔の長屋のようなもので、近所の人とのコミュニティがありました。少し皮肉ですが、祖父はよく仮設住宅に遊びに行っているようです。まだ仮設に残っている友人と、お茶をして時間を過ごしているようです。被災地の方の心の復興のためにも、人々を励ます、『ど根性ひまわり』の活動が一助となれば嬉しいです。」
 

インタビューの最後に、チャリツモメンバーへ、川崎さんからど根性ひまわり7世の種をいただいた


 

Gusty Sunflowers―ど根性ひまわり
https://www.facebook.com/GutsySunflowers/

 

あとがき

 

川崎さんは現在、カリフォルニアのリベラルアーツの大学で、ソーシャルビジネスなどを学んでいます。そんな川崎さんの原動力に一つに、震災に関わる経験が大きく影響しているそうです。2011年の7月に陸前高田を訪れて目にした、世界各国から送られた物資の数々。トイレットペーパーやシャンプーには、世界各国の言葉が書かれていました。それをみて、将来世界の人に貢献できるようになりたい、と感じたといいます。「本当にこれが人の役にたっているのか」と自問しながらも、自分が信じることを続けるというのは、なかなかできないことです。川崎さんの行動力と発信力があれば、世界で活躍する日も遠くないでしょう。そんな川崎さんのストーリーもまた、聞いた人を励ます力に満ち溢れていました。

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