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自由は、恐怖を捨てるからこそ 面白い。~型から解き放たれる存在としてホームレスの方とダンスを踊る~

路上生活者が自由なダンスをする。
この一言に違和感を覚える人は少なくないかもしれない。

都会の密集地を往来する人の目もくれず、無気力そうに佇む人に、世間は「惨めな人・朝からウダウダと怠けている」や「最低限は防ぎたい貧困ライン・社会の恥部」と偏見を抱く状況で、どうやって当事者が踊るのか。

数年前に携わっていたチャリティーイベントで、「路上生活者のダンスグループがすごい」との評判を小耳に挟んだのを機に、この新人 H ソケリッサというダンスグループに興味を持ち始めた私は、作業の手が空いたイベントの終盤に辛うじて観覧することができた。

商店街の横丁に流れそうなフォークソングを伴奏に、びっこを引く足どりで 50 代位のおじさんが歩いていたのだ。おぼつかない歩調と、空を描くように手を差し伸べる動作。

ただ 2 分間ほど断続的に、ゆったりと一定の速度で歩行するだけというのに、おじさんの人生の重みが私の心に突き刺さった。おじさんの歩きは私の心を奪いとったというよりほかにない。 彼の姿は今でも視界に浮き出てくる。

多分このおじさんは、ソケリッサのダンサーなのだろうか……
そう推測した途端から、ソケリッサの活動について知りたくなった。

ソケリッサのユニークな踊り――
せっかくなので、まずはおじさん達が踊っている動画を見てほしい。

リズムに合ったり合わせなかったり、一人一人がおかしな動きをしてバラバラ……
どこかぎこちなく痛ましげで、身体が見る人の目に開かれていない「自己にこもる印象」を感じる人も少なくないだろう。

一方で滋味というか、おじさん達しか表せない柔和で情緒的なユーモアがあふれている一面もある。 身の置き場も活路も見いだせない環境下ゆえ、傷ましさも見る人によって感じてしまうのはまだ分かる。けれど、みる人もホッコリさせる独特のユーモアはどんな背景から滲み出てくるのだろう。

そして路上生活のおじさん達は、全員といっていいほどダンサーになるべく最低限必要な基礎――いわゆるステップやリズムのカウントを取る・振付に合わせるという動きの身体訓練さえ受けていない。

踊る基礎もない彼らは、本来アマチュアのダンス愛好者にすぎないはずだが、実際アーティストのプロモーションから、国内外のフェスティバルに招聘されたりと第一線での活躍が期待されているダンサー集団である。

様々な事情や経緯で社会からはじかれた人が、権利を求める為の「歩く」啓発・デモ活動から「全身で可動域にとらわれない」前衛表現へとむかっていく理由とは何か、筆者自身、発達障害ゆえ社会的精神的ハンディに抗おうと身体表現を摸索している立場からも探ってみたいとおもう。

表面的なリズムや格好よさよりも、
“世の中に対してエネルギーを持った踊り”になることを摸索したい

旧校舎の教室の跡をほうふつとさせる場所でおじさんが一人、機材を巧みに取り扱うスタッフと対になってノートを数冊読み込んでいる。実はこの教室、ホームレスのおじさんダンサーグループ「新人 H ソケリッサ」の稽古場だ。

先ほどノートを読んでいたおじさんは、ソケリッサを取りまとめる主宰者で元芸能事務
所に所属していたプロダンサーであるアオキさん。 有名歌手達のバッグダンサーで、ホームレス経験とは無縁だった彼がどんな形で、ソケリッサを生みだす出会いがあったのか。

-この活動を始めたきっかけは何だったのですか?

「2005 年にたまたまライブを見かけた時、ストリートミュージシャンの横でお尻を出しているおじさんがいました。 僕はこの時、人前でお尻を出して寝ている存在のエネルギーに強く惹きつけられ、そのおじさんと一緒に踊れば自分はどうなるのだろう――そういう想いが体の中にわいてきました。

というのも、日々便利で恵まれた環境で生活できる身体に対し、又タレントのバッグダンサーなどで表面的な形の格好よさだったり、リズムにはめた動きの良さを求める中『自分のダンスが、この世の中に対してエネルギーを持っていない』と歯がゆさを感じていた時に出会ったその光景は、心強く惹きつける光景でした。それでホームレス状況の方をスカウトしていっしょに踊ってみたいと思いました。」

しかし路上のおじさん達は、他者を惹き込んで自分を晒すことを快くするダンサー・ミュージシャンと対照的に、あくまで日常の一瞬に身を寄せている状況にすぎない。

当然、他人と作為的に接触する表現という手段に不快感を示すホームレス状態の人が多く、アオキさんのスカウトは軌道に乗らなかった。 路上ダンスの構想は、福祉団体の伝手を通す間接手段において実現を果たすことになる。

ビッグイシューという、路上生活者が雑誌を売って自活する支援団体のおじさん達(ホームレス経験者)数人が、アオキさんの活動に賛意を示してくれたのだ。

(踊りに抵抗が薄かった背景に「露天販売の仕事柄、人に見せる表現とつながっている」というソケリッサのメンバーの話を聴いたことがある。アオキさんと行動を共にしたのもそのためかもしれない。)

 

決められた動きもマネもない。体調や生活で得た五感からダンスは生まれる

――実際おじさん達とダンスを始めて、どんな特徴がありましたか?

「おじさん達は“踊りになじまない体”が特徴的ですね。 振りが覚えられないし、忘れていく。どうすればおじさん一人一人の持ち味を生かすのか考えるうちに、今では形を伝えるのではなく“形を引き出す”方法で稽古をしています。例えば、あるおじさんはゆったりと歩く姿が面白いと感じました。

その方には『月の上を歩いてみて』とつたえます。それでやってみると、本人しかできない動きが強調された形となります。それぞれの体にそれぞれのやりたい動きが形になっていく姿はリアルであるし、言葉で振り付けることによっておじさん達の歴史が現れてきます。

具体的に稽古ではおじさん達の日常を観察し、体調や生活状態を考慮しながら面白い動きを発見します。やることは日によって違う形になりますね。踊りを組み立てることで、世界が見えてくる。

また、おじさん達の動きは不思議なことに何かに似ないですね。普通なら どこかで見たようないわゆるダンス的な動きをまねたり、周りの動きに似て来そうなするものだったりするんですけど、そうした身体の記憶を誰かが真似ようともしないし、制約を作らない印象があります。」

振付ならぬ言葉付けによって、決められた動きから解放される。 アオキさんの言葉は抽象的なので、自分自身の経験値に沿って空想をふくらませる想像力が必要だ。このような踊りのジャンルは、コンテンポラリーダンスなどと呼ばれる。

コンテンポラリーダンスは即興が特長的で、ダンサー個人が動きを提案したものを振付家が取りまとめて作り上げるなど多彩な創作スタイルがあるが、ダンサーとなるにはバレエを応用したテクニック等、一定の技術水準が必要とされることが多い。

紋切り型の安心感は恐怖であり、不安である。

筆者自身も立場の違いはあるものの、ソケリッサをはじめたアオキさんの想いと同様、発達障害等の社会的ハンディを負ってきた経験もあり、自身が持つ潜在的なエネルギーを排外的な世間に主張したい動機でコンテンポラリーダンスを始めたが、やはり障害独特の体調不良や指示から逸脱した動きをするなど、ダンサーあるいは人間として最低限の決め事よりオリジナリティに比重を置く傾向が強い為、蚊帳の外に置かれる状況が続いてきた。

何かを創造するのはいいとしても、一定水準に達してから実行するものだ。それがダンスではリズムと技術、または人間力であり、世間では常識と能力である。一定水準を求められることは、特定の何かに似るという要素も無視できない。

もしかしてダンスを技術とリズムで踊ることは「同調という一定能力を求める現代社会」と重なるものではないのか。だとすれば、なぜ人々は平均律を好む社会にしたがるのか。

アオキさんと話し合うなか、「決まったことに安心したい、と思わせる世の中の不安感」から来ているのではないかという結論に辿りつく。

「人間は『違う』という想定外のことに対し恐怖を感じてしまうから、決まったことに対して安心を感じるもの。ソケリッサも始めた時は『絵』があってそこに辿り着かせようとしたのですが、上手くいかなかったです。最初はダメなんだ、と失望しました。

でも、それは自分が型にはまり、相手にもはめようとしたことなんだと思いました。もちろん『型になる技術』を見せることは悪い訳ではない。でも踊り=技術を見せるものという固定的な考え方は怖いですし、技術を持っていないと踊れない訳ではありません。

技術を持っていない身体、たとえば赤ちゃんが一生懸命立ったときの感動だったり。
……やっぱりおじさん達と一緒にダンスをすると、すごく学びます。自分がこだわっていたことが、すごくつまらないことだったり恥ずかしいと思っていたことがすごい無駄だったとか、色々なことを感じます。」

社会運動でもいい。でも僕がやりたいのは“新しい価値観を生みだす”芸術”

自在性に富むソケリッサの表現。技術や流儀を外した先にある柔軟な方法は、芸術にこだわりつつも社会運動とも見なすことができる活動スタンスの融通性においてもいえる。

――実際ダンスを見たお客さんの反応はどうでしたか?

「最初は福祉関係の方が多かったです。実際、踊ることで“ギャンブル”が減った。“生きる糧ができた”というメンバーもいることもあり、おじさん達の社会復帰に繋がるのでは?といった社会復帰に特化した活動だというような理解が強かったのではないかと思います。

ただ自分がやりたいのは、おじさん達が人前に立った時に芸術としてどのように世の中に受容されるのか……もちろん社会運動として利用されても問題ありません。でも僕自身世の中が良くなるのを目的にすると、絶対に偏ってしまう。

社会運動そのものにしてしまうと、おじさん達がやることが、もしかしたら人にとってマイナスになるかもしれない。 人間の中には良い部分もあるし、悪い部分もある。まずはそういった人間のリンケージを、踊りを通して見せることが表現として自然であると思います。だからこそ、芸術であることにこだわりたいです。」

保障のある暮らしと引きかえに、過酷だが世間のしがらみを手放す生き方をしてきたおじさん達。 専門テクニックから解放され、型無しで内向性を帯びる表現はホームレスという境遇においても、ダンスにおいても一般的に難色を示されがちだが、一瞬一瞬の体温を魅せる彼らの姿は、実力の有無に応じて淘汰されるえげつない競争社会への強烈なアンチナーゼとして、人々の視界へ魅了させる。

アオキさんはソケリッサを新しい価値観を提供する芸術活動と語られたが、冒頭のおじさんが足を引きずる姿には、芸術によくある美的さとか格好つけるものがなく、ただただ自分に忠実な有り体だけが、いまでも私を惹きつける。

そういう意味でも、おじさん達は芸術指向のダンスに静かなソケリッサ〔*それいけの造語〕という殴り込みをしかけているのかもしれない。

新人Hソケリッサ!
http://sokerissa.net/

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