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一番大事なのは関心を持ち続けること。

※この記事は、2012年に掲載した記事を再掲したものになります。

設立以来、開発途上国などで「保健の仕組みづくりと人づくり」の国際協力をしてきた、HANDS。東日本震災においては初めて国内活動を開始し、医療支援をしてきた。代表の中村安秀さんにこれまでの取り組みと今後必要なことをお伺いした。

今回の震災の一つの特長は、地元の現場力がものすごいこと。地元の人たちが持っているポテンシャルの高さを僕ら自身が過小評価しているのではないかと思いました。

-実際、震災が発生してから、どれくらいのタイミングで駆けつけたのですか?

実際に、僕が初めて行ったのは、4月の始めでした。気仙沼に行きました。そして、HANDSの仲間といっしょに、有志という形でUNICEFや他のNGOなどのサポートをしていました。HANDSとして活動するというのを決定したのは、5月以降でした。

今回の震災の特長を言うと、3つあると思っています。

ものすごく多くの支援が全国から来たこと、それが迅速だったこと。

NPOだけでなく、医療で言うと、日本医師会が動きましたし、水の話で言うと、全国の自治体がその日のうちに給水車を出しています。この迅速さはちゃんと検証し評価しなければいけないと思います。

2つ目をいうと、今回は津波だったので、駆けつけたからと言って、医療で手術して救えるという人が少なかったこと。そして、駆けつけたけど、車のガソリンが不足したり、色々な障害があって、それで動けないということがたくさんあった。駆けつけたいけれど、ガソリンがないから、高速道路が使えないから、どこかでストップしてしまったとか。

そういうのは、中央政府の無為無策だと思います。日本中にガソリンがなくなっていたら、それは仕方がないのだけど、日本全国で見たら、ガソリンは十分にあった訳です。これを解決することは、地方自治体では出来ないですよ。

そしてもう一つは、地元の現場力がものすごい。地元の人たちがすごい動いているんです。

僕が感動した話で言うと、1週間目に、多賀城市という避難所で、君たちは一人じゃないと言って、被災した高校生が自分の避難所でボランティアを始めて、大人たちや子どもに向けて、「君は一人じゃない」と呼びかけるという行動をしていた。

欧米NGOのチャイルドパーティシペーション(子ども参画)の専門家の方が1週間目にやってきて、それを見た瞬間に「誰が教えたんだ!」と叫んだんです。

学校の先生も含めて誰も教えていないのにも関わらず。なぜ、日本は教えていないのに、子どもたちにそんなことが出来たのか。皆がおとなしく並んだから外国から賞賛されたとかそういう類の賞賛ではなくて、地元の人たちが持っているポテンシャルの高さを僕ら自身が過小評価しているのではないかと思いました。日本人は、つい自分たちのことだと遠慮がちになってしまいますよね。そのおじさんと後で会って話をして、多賀城市はすごいだろうと、ぼくは自慢していましたが(笑)

出来なかったこともあります。難民キャンプで出来ていることが、なぜ日本で出来なかったのか

その代わり、できなかったことを僕の専門分野の観点から言うと、公衆衛生面での世界的なスタンダードが全然出来ていませんでした。

具体的に言うと、水の供給。いつまでも水の給水車がやっていましたけれども、難民キャンプであれば、川から水を引いて簡易水道を作りますからね。そして、川はあるんですよ。なんでそこで簡易水道が出来ないのか。これを色々話をしていると、どうやら規制があるみたいなんですね。水道作るには許可がいる。「いいじゃない、緊急時なんだから」と思うのですが、その規制緩和をしないからそういうことになってしまった。

食糧もそうです。1カ月経ってから、ある避難所のご飯を見たら、おにぎり2つとパンが2つと今日は特別ですと言って、クッキーが入っていた。この炭水化物ばっかりの状況はひどいでしょ。そこから1時間離れた、仙台市では、普通の食事がレストランで食べれる訳です。難民キャンプでこれをやったら、保健担当官の首が飛んでしまいます。何をしているんだと世界中から非難をされて。

なぜ日本でこんなことになってしまうのだろうと。

多分、それは、コーディネーションが上手くいっていなかったからだと思います。必要な時に、必要な場所に、必要なモノを届けるという部分の。この緊急の時のシステムをきちんと構築出来ていなかったことに要因があります。勿論、そこに様々な方がボランティアで炊き出しに来てくれた。それはよかったのだけど、行政が、「最低○○カロリー、脂肪・ビタミンは○○%」など指定をして、不足していたら、それを補うというのが当然ではないですか。それが出来ない程、日本は貧乏ではないはずです。決めさえすれば、出来るはずなのに、難民キャンプで出来ていることが、なぜ、日本では出来なかったのか。

自分自身も含めて、大いに反省したいと思います。

印象的な活動は、企業・NGO・UNICEF・市が共同して出来た予防接種

-HANDSの活動で印象に残った支援はありますか?

陸前高田で色々な仕事をしていたのですが、陸前高田で予防接種をしましょうという話になりました。でも、予防接種をしようとしても、住民台帳もないし、何もかもがない訳です。でも、予防接種はしない訳にはいかない。子どもに「来年まで待ってください」とは言えないですよね。それで、やりましょうという話になった。

ワクチン・注射器は他所から調達することが出来た。でも、ワクチンを保存しておく冷蔵庫がない。当時はまだ、電気はしっかり来ていませんでしたから、冷蔵庫をどうするかと市が悩む訳です。僕らは、国際協力をやっていますから、冷蔵庫がないから、予防接種を辞めましょう!と言ったことはないんですね。普段、電気がない所でやっている訳ですから。実は、電気がなくても使える冷蔵庫というのがあるんですね。その途上国仕様の冷蔵庫を持ってくればいい訳です。それを陸前高田市に備えたのです。今度はどのように伝えるかという問題が出てきました。今までは、予防接種を実施する案内をハガキで出していました。でも住所も分からないですし。

-そうですね、台帳もないですし、住所と言われても・・・

どうしましょうとまた話になったのですが、国際協力をしていた僕らは、住民台帳がない所でしか予防接種をやったことがない訳です。ポスター作って、ラジオでやりますよとPRすればいいんです。市報もあるから、そこに載せればいいではないですか。おそらく、日本で初めてですよ、予防接種をするためのポスターは。陸前高田市とユニセフが中心になって、HANDSがそれを取り持って、博報堂がポスターを作ったんです。だから(ポスターは)おしゃれでしょ。企業とNGOとUNICEFと市が共同して出来たのがこれだったんですよ。

国際協力をやっているNGOや、JPF(ジャパン・プラットフォーム)に参加している国際緊急をやっている団体の強みは、インフラや情報がない所でやってきたことだと思います。あれがなくても、これがなくても、あるもので工夫してやりましょうというクリエイティブな作業が出来る。平常時になれば、予め定められた同じことをきちんとすることが大事ですが、復興の過程では、イノベ-ティブ・クリエイティブな作業が必要になると思います。

 

緊急支援は、悲惨な災害がなければ、出会うことがなかった地元の人と他所者が共に汗を流す共同作業。そこで生まれるストーリーを大事にして、つながりを維持することが大切だと思います。

 

-今後、どのような取り組みが必要でしょうか?私たちはどのように関わるといいでしょうか?

 

大事なことは、緊急支援というのは一言で行ってしまえば、悲惨な災害がなければ、出会うことがなかった地元の人とよそ者が共に汗を流す共同作業。だから、そこにはストーリーがある訳です。なぜ、私がそこにやってきたのかとか、そのようなストーリーを持っていると強いです。

 

今回も、ものすごいいいお話がたくさんありました。気仙沼の大島にいったら、そこの出身の先生で、今、関東の大学病院に勤めている方がいらっしゃいました。その先生が駆け付けたけれども、その時に大学病院も駆けつけて。その大学病院が毎月、十数チーム、入れ替わり立ち替わり、医療支援に駆けつけた。

 

その先生は地元の人ですから。その大学病院の先生の看護師さんたちが、撤退する際に、中学校の子ども達に「お医者さんとは」「看護師さんとは」という授業をして、看護師さんなんかは、看護服を持ってきて、コスプレではないけれど、中学生にも着てもらったりしました。最後、この先生は、「こういう風にして、思いもがけず仕事することになったけど、出来たらこの中学校から、一人でも、医療に携わる方が増えたらいいな」というメッセージで帰って行った。

 

単に支援をしただけではなく、いいストーリーがたくさんあるんです。

それを今後、大事にして欲しいと思っているんですね。一過性で終わらせずに。

だって縁が出来たんですもの。この縁を長くつづけたら、震災前にはなかったつながりが被災地に出来るはずなんです。これを上手にシステム化していくことが必要だと思います。

 

市民の力も必要ですし、行政のサポートも必要だと思います。そうしないと続かないでしょ。大事なのは、せっかく出来たこのような芽を摘み取ってしまうような復興をしてはいけないということです。

 

あと、今回の震災の特長は、世界の自然災害でこれだけの高齢化社会を直撃した自然災害は初めてということです。途上国のケースでは、皆若いです。50%以上が20歳以下という世界ですから。今回の被災地の人口の30%は65歳以上です。その後、どのように復興するかは世界にモデルはありません。だからこそ、高齢者がたくさんいますが、復興の中心には子どもを据えるべきだと思います。復興の時は、どの国も地域も子どもに未来を託します。だって、復興って本当に時間がかかったら、20年かかるじゃないですか。3年でどうこう出来ないと思います。

 

20歳くらいの人が20年経ったら、40歳で働き盛りでしょ。子どもが中心になって復興をしないと未来がない。だから、長期プランを僕みたいな年寄りが関与すべきではなくて、若い人が中心になって、復興出来る場を作るのが年寄りの役目だと思います。

 

一番大事なのは関心を持ち続けること。小さい話ですが、今、募金をすることは、活動している人にとって励ましになります。

 

最後のメッセージとして、東京などにいる若い人たちが何をしたらいいかということなのですが、出来ることは、3つだと思います。

 

一番大事なのは、関心を持ち続けることだと思います。

僕らも日常忙しいことが多いから、なかなか難しいのですが、ニュースを見たり、NGOの会合があったら参加したり、募金箱があったら、募金するのも大事だと思うんです。小さい話ですが、今、募金することは活動してくれる人にとって励ましになります。災害直後もそうですが、復興から少し時間が経過した今、募金をしてくれることには格別の思いがあります。

 

もう一つは、難しいかもしれませんが、現地に行ってみることです。友達の友達とかを探せば、気仙沼とか釜石とかに住んでいる方と繋がれると思うんですね。その方から紹介を受けて、現地に行ってみるといいと思うんです。NGOなどのツアーでもいいと思うのですが、友達の友達の案内で行ってみると、違うものが見えてくると思います。で、そういう風にして動いてみることが大事だと思います。

 

最後が、お金を出したり、知恵を出したり、ブログなんかを見たりしたら、リアクションをしてあげるというのも励ましになります。一言書き込むだけでも、これも立派な意思表明だと思います。自分が中心になってやるのは難しいかもしれませんが、そのような取り組みをすること大事なんです。

 

グッズを買うというのもありますね。ベトナムに行く前に、陸前高田のなめこ汁を手に入れたんです。岩手で働いていたお医者さんがベトナムにいらっしゃたんですね。その彼へのお土産として、陸前高田のなめこ汁。すごい喜んでくれました。小さい貢献かもしれませんが、大事なことだと思います。

 

インタビュー先:中村安秀氏 プロフィール

中村安秀 (なかむらやすひで) 大阪大学大学院人間科学研究科国際協力学教授。1952年和歌山県生まれ。77年東京大学医学部卒業。都立府中病院小児科、東京都三鷹保健所などを経て、インドネシアJICA専門家、パキスタンUNHCR職員など、途上国の保健医療活動に積極的に取り組む。東京大学小児科講師、ハーバード大学公衆衛生大学院研究員、東京大学医学部国際地域保健学助教授を経て、99年より現職。国際保健、緊急人道支援、母子健康手帳など関心分野は広いが、どこの国にいっても子どもがいちばん好き。

インタビュー先:特定非営利活動法人 HANDS(http://www.hands.or.jp/

HANDSは設立以来、開発途上国などで「保健の仕組みづくりと人づくり」の国際協力をしてきました。

しかし、2011年3月11日に起きた大震災では、先進国で例の無いほどの甚大な被害を「日本」が被りました。今回の震災で、世界の多くの国々から支援が集まっていますが、中には、日本から支援を受けてきた途上国も含まれています。そのためHANDSはこれまで通り、国際協力活動を中心にしながらも、今回の震災においては初めて国内活動を開始しました。被災地の方々が早く健やかな日常を取り戻せるよう、そして子どもたちを安心して育てられる、希望を持てる社会づくりを地域主体で行える日がくるまで、支援します。

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