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ソーシャルスタンド #5 自死遺族へ寄り添うことについて、聞いてみよう、考えてみよう イベントレポート

2018年3月23日(金)、ソーシャルスタンド主催「自死遺族へ寄り添うことについて、聞いてみよう、考えてみよう」というイベントへ参加せていただきました。

【3/23開催】ソーシャルスタンド #5 自死遺族へ寄り添うことについて、聞いてみよう、考えてみよう

今回ゲストとしてお話を聞かせてくださったのは、NPO法人セレニティの代表、田口まゆさんです。田口さんは、ご自身が当事者として、自死遺族への社会からの差別や偏見をなくすために、活動を続けていらっしゃいます。

この日参加されていた方たちは、親、親戚、友人を自死で亡くした経験を持つ方もいらっしゃいましたし、経験はなくとも、自死について真剣に考えたいという方たちが集まっていたので、始まる前はどことなく緊張感が漂い、私自身も、このテーマについての記事をうまく書けるのかと心配していました。

そんな緊張感を解いてくれたのは、田口さんの明るい語り口でした。ときには冗談も交えつつ、重いテーマにもかかわらず、その場が暗くなることはありませんでした。

皆さんは、自死遺族という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 田口さんのお話の中でまず驚いたのは、田口さんがお父様を亡くした直後、中学校の担任が皆の前で、「これからもよろしくお願いしますと言いなさい」と言い、頭を下げることを要求したというのです。遺族は何も悪いことをしていないのに、なぜそんなことを言われなきゃいけないのでしょう。私はすごく憤りを感じました。自死ということについて、人それぞれ考え方は違うと思いますが、本人や遺族の気持ちも考えずに、頭ごなしに否定するのは違うと思うのです。

田口さんが活動を始めたきっかけは、この教師のように、自死遺族に対する偏見や差別があるということが、世間にあまり知られていない、それを当事者として伝えていきたいという強い思いがあったからだそうです。活動当初は、「怒り」や「悔しさ」がエネルギー源となっていたそうですが、活動を続けていくうちに、心ない誹謗中傷に遭ったり、年月が経つにつれ、ご自身が活動を続ける意味を自問自答するようになっていったそうです。そのことをお話されている様子を見て、現在に至るまで、本当にたくさんの葛藤や苦しみと戦ってこられたのだなと思いました。

「自死遺族の田口さん」だけの顔では苦しいと、田口さんはおっしゃいます。良くも悪くも繋がりの強い地元では、どこに行っても周りが自分のことを知っている。地元を離れたからこそ、この活動を続けていられるし、この活動をする自分だけではなく、職場で笑ったり愚痴をこぼせる同僚がいる、さまざまな顔を見せられる場がある、ということが、田口さんにとっての救いになっているようです。
他の自死遺族の方もそうですが、一生消えることのない心の痛みを背負っていかなければならなくなったとき、なぜ自分を置いて逝ってしまったのか、なぜ死を選んでしまったのか、もしかしたら自分が原因なのか……さまざまな感情と向き合っていかなければならなくなります。だから自死遺族の自死もまた多いと聞きました。

田口さんは、ご自身の経験を語っていくことで、自らの救済、苦しみの昇華に導いていけたのではないかと思います。そして、そのおかげで私も貴重なお話を聞くことができ、自死ということについて、真剣に考えるきっかけをいただくことができました。

参加者を交えてのディスカッションで見えてきたことの一つは、日本では死というものに対する教育がしっかりしていないという点でした。死に対してタブー視する傾向があり、「自死はいけないもの」としていても、何がいけないのか、自死すると残された家族はどうなるのか、ということについては、深く学んだり考えたりする機会がないように思います。外国では、そのようなことを学ぶ授業があると知りました。

もう一つは、自死遺族と言っても、遺族の方たちの経験してきたことによって、思うことはさまざまだということでした。他人からすると、冒頭の教師のように差別や偏見を持つ人は少ないとしても、たいていの人は、同情の目を向けてしまうのではないでしょうか。しかし、遺族の方にとっては、家族(親戚)が亡くなったことにより、自分への風当たりが強くなったり、風評被害にあったりして、自死を選んだ方を純粋に惜しむことができない場合もあるのだとわかりました。また、生前に大変な苦労をしてお母様の面倒を見てきたという方の、死んでくれてホッとした、というご意見には、これは他人が軽々しく口を挟むことはできない、経験をされたご自身にしか言えない言葉だと思いました。

人間は生も死も、その時期を自分で選ぶことはできません。自死をしてしまう人は、それだけの悩み、他人にはわかってもらえない苦しみを抱えていて、その苦しみから逃れられるのなら、その人にとっては幸せなのかもしれません。自分の命なのだから、どうしようと自分の勝手だろうという意見も否定はできません。ただ、ほんの少しでも余裕があるのなら、残される家族のことを考えてみてもらいたいと思います。

今回のテーマ「自死遺族に寄り添う」ということについて、差別や偏見はなくしていかなければならないし、可哀想だから何かしてあげなきゃという同情もまた、偏見にあたるのではないかと、わたしは思いました。寄り添うというのは、その方がどのように感じていて、何を必要としているのか、ただ話を聞くだけでもいいと思うのです。励まそうとしても、そこには主観が伴います。きれいごとかもしれませんが、ただただ相手の話を聞いて、その痛みや苦しみを少しでもわかろうとすることが、本当の優しさなのではないかと思いました。

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