現代は仕事の根本的意味を、社会ぐるみで問い出す時代かもしれません。仕事をする目的や、仕事単体の存在意義は人それぞれだと思いますが、やはり多くの人の本音としては、経済関連に比重を占めているのが現状ではないでしょうか。
個人の技量に応じて対価がきまり、報酬を受ける労働は、誰かの(望み)が背景にあるのはいうまでもないですが、いざ掘り下げてみれば望む側は「何かが欲しい」とあるニーズに価値を見出し、望まれる側がニーズを受託して価値の求めに応える役割において、仕事は“価値のやりとり”をする行為と捉えることもできるでしょう。
「はたらく」という映画は、この価値についての疑問と葛藤を投げかけた作品といえます。
はたらくという役目を役者として務める
主演の翔平さんが演技の訓練に難航しつつも、日常の福祉施設で彼が勤めている作業を、実際職業として演じてみるプロセスが特徴的な「はたらく」のストーリー。
普段は福祉作業所で単純作業に従事する翔平と、福祉作業所の元非常勤職員だった監督をめぐる成り行きには、人によっては煮え切らない違和感が、映画の閉幕と同時に降りていくでしょう。
たとえば私自身、後半のフィクション編で、自然体で存在する翔平に対し、共演する俳優が急場あわせに翔平の手をとる仕草などは、台本の設定通りに合わせたがる(わざとらしさ)や、主人公の翔平なりの演技をどこかなおざりにする役者たちの一方性を読み取ってしまいましたが、監督の齋藤さんによると「フィクションの中にフィクションを設定する」一種の意図をもった描写だといいます。
確かに「はたらく」を作る軸となる(製作メモ)と構成されたドキュメンタリー、そしてドラマの三つ巴に展開する映画は全てに作為があり、緻密に演出された社会に応じきれない個人の苦悩と、応じさせようとする多くの人間の葛藤がシーンの全編にわたって巧みに組み込まれている気がしました。
違和感も意図のうちーー社会は作為にあふれている?
煮え切らない違和感というと「稽古場とドラマの現場の多くがキリスト教会」であるという、もう一つ腑に落ちない部分があります。この映画はキリスト教系の映画会社が製作しているから、という背景があるのも事実ですが、“はたらく”というテーマにかぎれば、齋藤さんがそもそも映画を構想するきっかけとなった想いにある「生きづらい人の、視野が狭くなる現実について、世間に問いかけたい」または「仕事とはそれぞれに役割があり、私たちはその役を果たしている」部分にヒントがあるかもしれません。
主人公のハンディをもつ翔平、キリスト教会を取りしきる牧師や執事などの宗教関係職、またはインディペンデントの俳優などは、基本的に実状が可視化されにくい=具体的な生産行為が見えにくい立場、という共通点があるといえます。価値を貨幣に求めがちな現代において、対価とは違う生きがいを摸索する、せざるをえない彼らは働く意味の本質に挑戦する役割を役者になることで見いだしていくーーそれがこの映画の仕事であるというメタファーを感じさせます。
観客と立ちはだかる意識の壁――要求のギャップを改めて問う旅

働くことは、作り出したもののなかに、自らの活動の意味を見いだす事といいますが、生きがいや意味以前に、経済活動へ眩みがちな現代の仕事の価値のやりとりに、翔平さんという非能率的な俳優を通して真価を疑う。
「はたらく」の仕事は、観る人へ鑑賞にとどまらない、論じる映画としての活動を繰り広げていくことに、これから期待していきたいです。
自閉症の翔平さん主演!映画「はたらく」全国上映プロジェクト
https://readyfor.jp/projects/eigahataraku-ouen
現在は、全国で上映を開始しています。

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映画「はたらく」公式ページ
http://logosfilm.jp/free/hataraku
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